三月

今年度最後の月、今年に入ってもう三か月目、早い。

日日も時間通り更新されず、なんのために毎日書いているのかと疑問に思われるこの頃、ちょっと疲れたんで、ここらへんでやめておこうかなと思っていたりする。

パソコンのモニターが届いた。早速、二画面のセッティングをしてみた。ついでに机の上のものをもう一つの小さい机の上に移動して、何もない状態にしてみた。

画面がひろく使えてとにかく作業効率が高まりそうだ。机が綺麗なのもかなり気分が良い。パソコン以外に気を奪われないのも効果として大きい。とはいえパソコンの中にも多くの誘惑があるのでそこは気持ち次第だ。

音楽制作のソフトもインストールした。使い方を覚えるのも慣れるのもまた大変そうだけど、とりあえず作れるだけの、最低限のことはわかった。

あとはやる気の問題だけだ。これ、どんどんほしくなっちゃうな。制作の効率を上げるためにキーボードも欲しくなっちゃうし、オーディオインターフェースっていう、楽器類とパソコンを繋ぐものがあるんだけど、これも新しいのが必要だなってなってるし、ちゃんとやろうと思ったらスピーカーも必要だよなとか、とにかく物だけ揃えて何もしない、典型的な初心者だなって感じだけど、そういう欲が出てきた。

まあでも最低限の環境は揃ったかなというところなので、近々少しずつ動こうと思う。だいぶブランクがあるので、また最初からやり直しという感じだけど、一つずつ、小さいものから形にしていこうと思う。まだ何もやっていないのに楽しい。

昔作った曲たちも出し切っていないし、でも出したところで聴かれてないし、どうしようかなと迷ったりもするけど、大切なものを大切にしていこうと思う。

再開の目処

音楽制作のソフト類を購入、届いた。とてもわくわくする。7~8年、そこそこの情熱を持ちながらいろんなものを作ってきて、作ってきた期間と同じくらいの期間、何もせずに休んでいたけど、ついに買ってしまった。

結局何も発表せずに終わってしまう可能性もゼロではないけど、今はわくわくが止まらない。もともとお金を一切かけずに何でも出来たのに、これはいったいどうなっちゃうのだろうという感じだ。

さらにさらに、いわゆるDIYというやつをしようと工具や材料を購入し、届くのを待っている。最初は壁に棚を作ろうと思っている。いろいろなやり方を考えていたら、結局どうしようと迷ってしまっていたけど、少しずつ拡張していこうという考えに落ち着いた。本当は壁一面を木で埋めたいとかあるんだけど、まずは柱と棚だけのシンプルなものを作る。

DIYっていう言葉がいまだにしっくりこないけど、自分でやるっていうことであれば、今やっている音楽もウェブサイトも絵も詩も小説も何もかもDIYで、ここに家具作りや裁縫、革細工とかなんやかんやが追加されたら本当に楽しい生活になりそうだ。生活で使うものがすべて自分で作ったもの、みたいなのが理想だ。

こんなにわくわくしてるのは久しぶりの感覚だなあ、って何回も言ってる気もするけど、環境が整ってきたのでまた少し動ける気がする。この波がすぐ終わらないといいな。

一月はある程度新しいことを始めてみたりして、いいスタートだったけど、二月はあまり行動できなかった。二月も終わり三月に入る。三月は、新しいことを始めるというよりは、一月に始めた新しいことを続けつつ、昔からやってきたことを再開する月になる気がする。そうしたいと思う。

社会人の端くれ

正社員して1年と2ヶ月の勤続となった。今までも正社員で何社も転職していたり、アルバイトだったり契約社員、派遣社員だったり、フリーランスだったり、いろんな形を経験してきた中で、最長の勤続となる。自分にとってはとても不思議な感覚である。

今はお金を稼げるという意味では、正社員、個人、友人とのチームの3本でやっている。すべて好きな場所、好きな時間でやれることが続いている大きな理由の一つだろう。個人でやっているものは、なくなりそうな気配があるので、実質、正社員とチームの2本でやっている。

時代が変わってきたことはみんななんとなくわかっているだろうけど、やっぱり話が通じない、噛み合わない人はまだまだ多くいる。どれが正解とか不正解とかじゃなくて、選択肢の有無の話だ。そして自分の選択の話だ。

生きることについて何十年と考えていて、やっぱりどうもいわゆる「仕事」とかいわゆる「働く」ということがいまいちしっくりこない。しっくりこないどころか違うと言い切れるのに、ここは多数決の世界だから伝えることは難しい。

パイオニアより二番手、三番手のほうが数字を出すのは、我々凡人にルール説明をする段階をパイオニアが担ってくれたからだ。そのルール前提でやれる人のほうが当たり前に有利なのだ。つまりそれ以降、「史上最速」などが出たところでそりゃあそうだなというものだ。もちろんそれはすごいことで、賞賛されるべきだと思ってはいる。

しかし、パイオニアかつ最強プレイヤーかつ最高ゲームメーカーみたいな人が稀にいる。道を切り開いたのではなく、土地をおさえた、島を手に入れたような人だ。

脱線してしまったが、一言でまとめるなら、ライフワークを、ということだ。大切なことは何か。

僕たちの武器

人間であるから、弱いから、逃げることをやめない。

言い訳ばかりして逃げることは、刃で、銃弾で傷つけることよりカッコいい。

言葉はなんのためにあるのか、詩は、音楽は、平和の中にある戦いだ。

日常の中にある戦いは、最低限のルールのもとで行われる。

僕らは人間だ。

人間は細胞の集合体で、僕らは地球の細胞だ。地球は宇宙の細胞で、宇宙はまた僕らを構成する心の細胞だ。

助け合うことが難しかったとしても、殺し合わないことは簡単なはずだ。

人って本当に自分勝手だよなあ。自分勝手でいいんだけど、自分勝手じゃだめなんだよなあ。意図を汲み取らないで言葉だけで判断して批判する人、うわさ話だけで元情報も確認せずに文句たらたらの人、ニュースの見出しを読んで中身を読まずに否定する人、アクセスを稼ぎたいがために嘘の見出しを書いちゃう人、主観だろとか言っちゃう主観で喋る人、感情論ばかりだなとか言っちゃう感情論ばかりの人、宗教を嫌うことを信じている人、論点ずらすなとか言う論点ずらす人、自分から聞いておいて回答に聞き疲れる人、自分の考えが足りてないことを想定できない人、自分のイメージや先入観を持ってそれを前提に目の前の出来事を当てはめていく人、これらすべての塊みたいな人、それの何が悪いか考えようとしない人、面倒だ。

それらすべてが自分に当てはまらないかということを考える。

人を信じて自分を疑うことが課題だ。

人間でいることがとても難しい。人間でいなくなればどれほど楽だろう。気に食わないものをすべてめった刺し、すべて排除できたらどれほど楽だろう。

自分が信じたものを信じればいい。それでも自分が信じないものを攻撃する必要はあるだろうか。

自分が信じないものを見ないのも自由だ。自由だけど、絶対に見たほうがいい。

唐揚げ弁当二つ

二週間ほど続いていた耳の痛みが和らいだ。まだ少し違和感はあるけど、痛みがないだけでだいぶ楽だ。身体の不調も全体的に良くなっている。相変わらず昼間にはずっとぼーっとしているのだけど、気持ちは上向きだ。

今日は15時ごろに唐揚げ弁当、20時ごろに唐揚げ弁当という二食だった。唐揚げが無性に食べたくなる日だった。今は味噌カツが食べたい。納豆の賞味期限が切れているので、そちらも早く食べないといけない。この前食べようと思って食べられなかったつけ麺も食べたい。

最近は完全な休みがないなあとふと思った。一日何もなく、何もしなくていい、そして明日も休みという日がない。忙しいとかそういう話ではなくて、そういう日がほしいなと思った。感覚的には、かれこれ半年くらい、休みが一か月に一日くらいに感じる。暦上の休みとか、仕事の休日とか、そういうことじゃない。休みたい。

先日、ちょっとした会話の中で、ようやく重すぎた腰を上げようと思った。思っただけだけど、思った。十年以上、要らないなと思っていたけど心のどこかで買ったほうがいいと思っていたものを買おうと思った。別にそれがあったからって結果が大きく変わることがないのは見えているんだけど、それでも過程に大きく影響があるのはわかる。まあ、音楽制作用のソフトなんだけど、ついに買っちゃおうかなっていう感じだ。

昔はいかにお金をかけずに良いものを作るかという視点を持ってやっていたけど、制作に関するものにはお金を使うようになった。グラフィック系のソフトに月額を払って、絵、写真に役立つものをぽんぽんと買った。しかし、こと音楽に関しては腰が重すぎる。まあたぶん、特別の中でも特別なんだろうな。

やるきっかけというか、目的というか、そういうものが復活しそうなので、動き出すんじゃないかなって予感がしてる。

飛べ

見ないようにしていた、弱く弱く今にも消えそうな火が、消えそうなまま灯っていた。

幾度の雨風の夜を越えて、傘がなくとも屋根がなくとも、真っすぐ打たれ続けても決して消えなかった。

知っている。この火は消えない。そんな簡単に消えるものじゃない。

この灯りに、この熱に、数多の生き物が寄ってきては、バチバチと羽音を立てた。灯っているから、熱いから、その火が羨ましいか、妬ましいか、それとも馬鹿らしいか、恥ずかしく見えるか。彼らは引っ切り無しに周りをうろついた。

前が見えない、邪魔だと手で払えば、この手が悪となるだろう。灯りは目立つ。目立つお前が悪いと言われても、この火はお前らを導くためのものでも、邪魔するためのものでもない。

この火は今から歩く道を照らすものだ。見えない道を、照らしただけだ。

足は黒ずんで、擦り切れて、歩く。裸足で、かさぶたになって、めくれて、歩く。ここに来るために僕は歩いてきたんだ、そう思った場所で、そう思ったのは僕だけで、ひび割れて、化膿して、もう感覚なんてなくなって、歩く、歩く、歩く。

さぞかし面白いだろう。笑うやつを笑って、歩く。

休めと言われて、歩く。走れと言われて、歩く。歩けと言われて、どう思う。

この旅の始まりはなんだったか。

暗闇の中、どこにいるのかわからないけど、一歩先がぼんやり見える。だから歩く。

この旅の始まりに、心を置いてきたような気がする。だから歩く。

心はそこにあるから、歩く。この身体がどうなろうと、この火に燃やし尽くされ灰になろうと、心はそこにあるから、歩く、歩く、歩く。

見ないようにしていた、弱く弱く今にも消えそうな火が、消えそうなまま灯っていた。

飛べ、お前ならいける、と声がした。そう聞こえた気がした。

こちら無風、眺め悪し、長めの滑走路にて向かい風を待つ。

メンドクサガランドリー

訳あってコインランドリーで洗濯している。

食事さえ面倒くさいのに、洗濯となるとさらに面倒くさい。そのためにコインランドリーに行くのはさらに面倒くさい。

洗濯しないと明日のパンツがないという状況をとっくに通り越して、一回履いたパンツの中から、比較的綺麗なものを取り出してまた履く生活をしておよそ二週間ほど経った。そういうのが平気なわけではない。毎日気持ち悪いと思っている。ただ、それ以上に洗濯に出かけるのが面倒くさいだけだ。

明日は行こうと思う日々を終えて、ようやく洗濯しにいこうと移動していたら、近所にできた新しいコインランドリーを見つけたので、そこに入ってみた。できたばかりなので、中はやはり綺麗で、ヤツが出そうな気配もない。一回だけ言う。ヤツとはゴキブリのことだ。ヤツは、雨の降った次の日にコインランドリーに出現するので、利用する予定がある方は要注意だ。

新しいコインランドリーは、今まで行っていたところより近く、綺麗で、そして安い。最高だ。カードを発行して、1000円チャージしたら100円分付くのだ。今までのところと価格自体は大差ないけど、一割引きになるのは大きい。次回からもここにしよう。wifiも繋がるので、仕事なり日日を書くなり、洗濯している間にそういった使い方も出来る。最高だ。

二日間でカップ麺三つくらいの食事だったので、体重が2キロ減った。さすがに不健康だと思って、今日の昼は思い切り食べた。サラダ、400グラムの大盛りパスタ、フランクフルト、卵焼き、たこ焼き、満腹コース、飲み物は一日分のビタミンが摂れるもの、鉄分が摂れるゼリー、メロンソーダ、お茶とこちらもたっぷりがぶ飲みコースで大満足だ。

メロンソーダは美味い。たまに無性に飲みたくなる。

200年後に生きたい

ライブ配信でゲームをしていたら、見ていた人たちと一緒にやりましょうという流れになった。

こうやって、はじめましての人と会話をしながらゲームが出来るって、今では当たり前だけど、基本的に人見知りであったり、場とか人とか考えることが多くて、うまくやらないといけないなと思う。

一緒に話しながらゲームをしていた人たちと、ただ見ていた人たちがいたけど、ここのバランスをとるのが僕の器では難しい。一人でわーわー喋っているときと違って、いわゆる人柄というものも出てきてしまうように思えた。自分が楽しめればそれでいいじゃないかと言われそうだけど、そういうことではなくて、自分が楽しめる場所を守るために、やらなきゃいけないことがどうしても出てくるのだ。この戦いはきっと、何かやろうと思う限りずっと、誰に知られることもなく、永遠に続くのだろう。

2022年2月22日22時22分を目撃出来る。まあ時間なんてものは、人類が勝手に作って勝手に決めただけなんで、今この瞬間から、「日日歴」みたいな時間を始めてもいいんだけど、それでも2022年という歳月は計り知れなくて、この瞬間に立ち会えることは素直に嬉しい。そして火曜日であることも、少しだけ特別な感じだ。火曜日は2番目の曜日のような気がするからだ。

ただぞろ目なだけでも嬉しいんだけど、僕はなんとなく「2」が好きだ。なぜ好きなのかというと、なんとなくとしか言いようがない。2にあまり関係もない。フォルムはカッコいいと思う。

200年後に生きる人が羨ましい。その時に僕が生きていたら、2222年2月22日22時22分22秒を迎えるときに思うんだろうな。なぜ22月までないのだ、なぜ今は23世紀なのだ、と。

日記

書くことがないという状況になっている。昔の自分だったらこんなこと考えられなかったと思う。どんなにつまらないと感じた日でも、何かしら気になることがあったり、学ぶものがあったり、感じ取るものがあったと思う。

もし日記を毎日書いたとしていたら、こんな感じだ。

昼前に目が覚めた。布団の中で一時間ほどごろごろして、風呂に入りながらモンスターエナジーを飲んだ。風呂を上がったら机に向かい、パソコンで延々と動画を流し続けていたら夜になっていた。そろそろ何かをしなきゃと思って、とりあえず外に出て、コンビニへ向かった。コンビニでサラダとパスタを買って帰った。部屋に戻り買ってきたものをすべて食べ、眠くなるまで動画を見た。

うん、何もない日だ。毎日こんな感じで過ごしている。だらだらと過ごしていていいじゃないかっていう気持ちもあるけど、楽しいかというと楽しくなくて、すごく簡単に時間が過ぎていくのが、後になって怖い。

気持ちに波があって、緩やかな上昇、下降を繰り返してきたけれど、その波の幅がだいぶ狭くなってきているように思う。昨日とても明るく気分がよかったかと思えば、今日は何も考えられないし何をしていてもつまらない。何のためにここにいるんだっけと考えたりする。

暇がよくないということもある。暗いことを考えないようにするには、目の前に、とにかくがむしゃらに頑張れるものがあるといいとか、忙しくすることが大事だとか、そういうことは想像できるんだけど、いかんせん頑張れないのだ。

なぜ頑張れないのかというと、頑張れないから頑張れないのだ。こういう時はどうあがいたって頑張れないのだから、素直に眠りにつけばいいことも知っている。知っているけど夜更かしはやめられない。

どうにかここから抜け出して、絶対に幸せになろう。そのために生きるのだ。幸せとはなんて考えない。

外向きの運

部屋に引きこもっているのと、飲み物を箱で買うことが増えたので、自販機で買うことが少し減った。

久しぶりに買うと、やっぱりうめえってなる。夜に飲む缶の冷えたサイダーがたまらん。夏はなおたまらん。

近所の自販機にはないが、あたり付きの自販機がある。学生の時は、あれで当たることなんかあるのかと思っていたけど、数回当たったことがあるので、ピピピと鳴るのが、今ではちょっと楽しみになっている。

仕事の休憩に、外に出てビル街を散歩しながら自販機を見つけては何が置いてあるかを確認する。自販機を見つけたら品揃えを確認するのが半ば癖になっている。だいたいコーヒーになる。

初めて当たりが出た時、まさか当たるなんて思っていないので焦った。当たりの音が出ると同時に、もう一本選んでいいという状況になるんだけど、その時間があまりにも短かったので、適当に押して要らない飲み物が一本増えることになってしまった。ラッキーってこんなもんだよなと思う。

ある年の冬、深夜の自販機でコーンポタージュを買った。ボタンを押すと同時にガガガンと音が鳴り、コーンポタージュが3本出てきた。ありがたく貰いつつも、缶は冷えるのでちょっと邪魔だなと思った。次の日、同じ自販機でコーンポタージュを買った。ボタンを押すと当時にガガガガンと音が鳴り、コーンポタージュが5本出てきた。ありがたく貰いつつも、5本は要らないし、缶は冷えるのでかなり邪魔だなと思った。ラッキーってこんなもんだよな。次の日、同じ自販機でコーンポタージュは売り切れになっていた。

抽選に当たることがけっこうある。当たる時には共通点がある。それは自分の欲を前に出さないこと、当たったら誰に何をしようという考えが自然と出てくることだ。他人が自然と浮かぶ時の勝率は高い。

あの山に行こう

自転車で隣の町まで走ってきた。約2時間ほど走って脚がすこし痛い。

中学、高校、大学と自転車で通学していたこともあり、自転車に乗ると学生時代のことを思い出す瞬間が多い。

大学生の時には、夏休みなどの長期休みに、一人暮らしのアパートから実家までの100km近くを自転車で3往復ほどした。仲の良かった友人とたまたま実家も近く、二人で深夜に出発して、10時間ほどかけて帰省したのはけっこう楽しい思い出の一つだ。彼とはそういう、何やってんだろうって遊びをよくした。

ある日、いつものようにコンビニの前で待ち合わせをした。コンビニのチキンを食べながら、今日は何をしようかと話した。お互いに何でもいいよねと言い合いながら、そう言っていても何も始まらないので、今見える景色のなかでたぶん一番遠くに見える霞んだ山を指差して「あの山に行こう」と言った。

半分冗談、半分本気の提案に友人は「いいね!」と言った。そういうところが彼と一緒にいたいと思う一番の理由だったかもしれない。

挑戦心とか、好き嫌いとか、損得とか、お金とか、恋心とか、物欲とか、向上心とか、一緒にいて楽しいとか、面白いとか、誰かと一緒にいる理由を説明しようとすればいろんなことが思いつくけど、結局のところ好奇心というものがある人と、一番ストレスなく、一番楽に過ごせる気がする。

あくまで僕の体感だけど、好奇心がある人というのが圧倒的に少ない。異常に少ない。何に対しても「いいね」と言える人、自分はある程度そういう人であると自負しているけど、自分を除けばそういう人は彼以外に思いつかない。

自分の「憧れる」「羨ましい」「やってみたい」そういう感覚、そこには、知識の邪魔や、結果得られるメリット、デメリットを完全に無視した、とにかくきっと「いいね」という感覚だけがある。一ミリの下心もなく、自分のやりたいで共鳴できる人はとても貴重だ。

サラダムーン

昨夜の満月はスノームーンと呼ばれるらしい。真っ白な月のことかと思えばそういうわけでもなく、2月の満月のことを言うらしい。何月の満月かによって、他にもストロベリームーンとかいろんな名前があるけど、名前があるだけで特に何も変わらない。でも、名前がついただけで、なんとなく特別な気がしたり、今日は空を見てみようかなと思えたりする。名前って素晴らしい。

体調のことをちょっとだけ気にしてサラダを買うようになった。ちょっとだけね。

コンビニのサラダの量がもう少し多いといいなと思う。これが食べたいというやつはだいたい量が少なく、大きめのサラダは、これじゃないという感じがする。たくさん食べたいときは自分で作るしかないのだろうか。サラダバーでのんびりしたい。

そういえばサラダっていわゆる野菜のことでいいんだよね?

でもお菓子なんかで「サラダ味」ってあるけどどういうこと?って思っていたので気になって調べてみた。サラダってどういう意味だろう。

サラダとは、生野菜を主として油と酢で調味してあえたもののことのようだ。ここまではイメージ通りだけど、じゃあお菓子のサラダ味ってなんだろう。

サラダ味とは、サラダ油をかけて塩味をつけたもののことのようだ。サラダ油……サラダ油のサラダってなんだろう。

サラダ油とは、生野菜のサラダ料理に合わせるための油として開発されたもののことのようだ。

サラダ味のサラダはサラダ油のサラダ、サラダ油のサラダはサラダ。うーん、なんか腑に落ちない。

七夕の話でもあったな。七夕に雨が降ると、天の川が氾濫して織姫と彦星は会えないらしい、という話と、七夕に降る雨は、二人が会えなくて流した涙であるという話、うーん、なんか腑に落ちない。

何一つ正解なんて存在しないのじゃないかという気さえしてくる、なんか腑に落ちない夜に見える月に名前をつけてみる。

毎日書くつもりはなかった『日日』を書き始めて、10日経った。700~800字くらいの感覚で、なんでもないことをつらつらと殴り書きしている。

日記的な意味合いもエッセイ的なニュアンスも意識しない、正直もうすでに何を書いたかもよく憶えていないくらいのものを書いている。ただ、その瞬間本音であることは間違いない。

始めた理由がいくつかある。

長らく離れていた文章を書くという行為に触れ、慣れたかったということ、何をやるでもない日々の中で、何かやっている自分を積み上げたかったということ、そんで、そういう自分の欲求のついでに、誰かに何か少しでも影響を与えられたなら嬉しいということ、これらを満たす可能性のある最小の行動として、この『日日』を選んでみた。

10日間やってみた感想としては、まず、文章を書くことにはだいぶ触れられている感覚がある。本当に久しくこうやって書くことがなかったので、殴り書きとはいえ難しい。思うように言葉が出てこない。けど、始めた日から比べてみれば少しはペースが速くなった気がする。

何かやっている自分を積み上げることはできたかというと、単純に10個の文章があるのを見て「何かやった気分」に浸ることはできている。何もやらなかった日々と比べれば、それは段違いの密度がある日々に感じる。錯覚でもいい。

人に影響を与えられたかというと、それはわからない。わからないけど、『日日』をシェアして、何かを書く人の存在が確認できた。自分の行動が誰かの生活の中にあることを確認できたことが、とても嬉しい。それらに目を通すことがまた自分の生活の一部となる。この、時間と空間を超えた、インターネットの海に漂う特有の体感を、また求め始めているのかもしれない。

空のある日常

朝から夜まで部屋で過ごし、飯を買おうと外に出たら月がよく見えた。

満月かなと思って調べてみると、満月は明後日だった。そういったことは日常的にあって、自分がよく空を見ていることに気づく。

昨年は、流れ星を見て、虹を見て、月食を見て、UFOのようなものを見た。流星群や月食は、その日がそうだとは知らず偶然に空を見ていた時に出会うことが出来た。前情報を知らずに出会うと、本当に奇跡を強く感じる。

そして今年に入ってすぐ、隕石を見た。隕石は、たまたま外に出た数分の間に現れて消えた。すぐにカメラを向けたので動画を残したけど、SNS上では目撃情報も少なく、本当に奇跡的だった。

UFOの件については、怪しまれたくないのでここでは割愛するが、ただ空を見ていただけで、こうやっていろいろなものに出会うことが出来た。

空を見ていなければ月は見えない。虹も流れ星も隕石も、出会うことはない。流れ星を見るために毎日空を見ていたら笑われるかもしれない。でも、空を見ていないと流れ星は見えない。これはいろんなことに言えるなと思う。

夢を見る人はいつだって笑われる。笑われてなお夢を見る。人の夢を笑わないことが正しく優しいようになってきている気もするが、この頃は、笑われる夢を持ちたいと思ったりもする。

何か作品で表現する時なんかには、わかってもらいたい、伝えたいという気持ちと、伝わるものではない、理解されるようじゃまだまだだという気持ちが共存する。同じように、自分の夢を笑われることは、悲しくもあれば、嬉しくもある。笑われるほど素晴らしい夢なのだ。出来るとわかっていることが出来るより、出来ないと思われているものが出来ることにより楽しさや燃えるものがあるのだ。

見ようと思わないと見られないものがたくさんある。笑われるような夢を見られた自分を褒めてやろう。空の向こうには何があるだろう。

問題ない問題

今日やることと今日やりたいことを書きだして、9個のうち5個を終えることができた。

やろうと思い続けてやれていなかったことがいくつかあったけど、勢いでまとめて終わらせた。素晴らしい。そのうち3つは電話することで、全部お金に関わることだ。なんやかんやで、一般的なアルバイトの日給分くらいが手元にかえってくる。ありがたい。ありがたいけど、そのほとんどが病院代に消えた。

しばらくめまいや耳の痛みが気になっていて、耳鼻科に行ってきた。考えられる原因としては、栄養不足や睡眠不足、耳内部の炎症、可能性は低いが脳の問題があるらしい。

診てもらった結果としては、炎症は少なく、脳の問題もないらしい。つまり栄養不足か睡眠不足ということになるわけだけど、睡眠は毎日10時間くらいはとっているし、じゃあ栄養不足かっていうと、うん、その可能性は大いにある。

栄養不足、というほど偏った食生活を送っているとは思わないけど、思い返してみれば毎日の食事の量が少ないなあとか、パスタ多めだなあとか、お菓子食べ過ぎだなあとか、甘い飲み物ばかりだなあとか、けっこう気を付けたほうがいいかもしれない。

でも、煙草も吸わないし、お酒も飲まないし、いわゆる不健康の代名詞みたいなものからは距離のある場所にいるから、逆に僕が危ない状況となると、世間の皆様はもう死期間近じゃなかろうかと思ったりする。

他にあるとすれば、運動不足とか、精神的な問題とか、そういうものの影響もありそうだ。

精神的な問題の解決は簡単なものじゃないから、出来る範囲で、運動不足について少しずつ改善していこう。運動しよう。散歩するとか自転車に乗るとか、けっこう日常的にやっていたことも、最近はまったくやっていない。散歩は好きで、ちょっと前まで意味なく深夜に街を歩き回っていたことがある。あの習慣を取り戻そう。

失速

もう二月も中旬、時間が経つのは本当に早い。今年の意気込みはなかなかで、一月は自分の中でもそれなりに良い出だしだったと思う。

けど、今月はだいぶ失速気味だ。といってもまだ二週間あるので、ここから追い上げよう。何をだろう?

友人とチームで制作の仕事をしているんだけど、昨日から右耳が聞こえにくくて、頭の中がぐわんぐわんとしていて、途中で切り上げてきた。話している時とか、ぐっと集中出来た瞬間は平気なのに、ふとした瞬間にくらっとする。昼頃に帰ってすぐ寝て、起きてもずっと違和感がすごくて、夕方過ぎてからやっと良くなってきた。

体調不良な話ばかりになっていて、自分でも面白くない。近々病院には行くけど、なんでもないといいな。精神的な問題で出ている症状であるほうがいくらかマシだ。

さて、今月に作りたいものが二つある。正確には作り直したいものだ。始めたいこともいくつかある。発表できたらいいなと思うものもいくつかある。時間が経つのは本当に早いので、思いつくものからどんどんと形にしていきたい。

始めることは面積を拡げること、続けることは体積を積むこと、なるべく高いところへ上るために、関係なさそうに見えることを始めてみることが重要だと思っている。

関係ないと思っていたことが、実は深いところで繋がっていて、あれとこれは一緒だったんだと気づくことがある。

算数と音楽が似ていたり、ホラーとお笑いが似ていたりすることに気づくと、じゃあ、かくれんぼと昆虫図鑑が一緒だったり、RPGと電子レンジが一緒だったりするかもしれなくなってくる。それはつまり、一見無関係に見えるものの共通点を見つけた時に得られる、「少し深く知ったような気分」を大事にしたいということである。

タイムトラベラー

SF映画を観過ぎて、UFOや宇宙人、過去やら未来が生活の中に飛び交っている。

宇宙人が地球にやってきて何らかの問題を起こすとか、その逆で地球からどこかの星へ行って問題に出逢いに行くとか、だいたいそんなものだけど、ホラーと一緒で、そういうお決まりの展開が面白かったりする。

しかしたまには、何を聞いても教えてくれないとんでもない無能が未来から来るとか、ずっと遠い昔から飛んできた若者が現代に染まっていくとか、そういうドラマも見てみたい。

ところで、理論的には未来に行くことは出来ても過去に戻ることは出来ないというような話があるけど、実は過去へ戻る方法は意外と簡単なのだ。過去へ戻るためには準備が必要だけど、逆に言えば準備をすれば戻れるのである。

日記帳だったり、写真だったり、CDやDVDだったり、とにかく記録を残すのだ。今この瞬間にアンカーポイントを打つことによって、未来の誰かがここにアクセスすることが可能になる。

未来にインターネットが続いているとすれば、もしくはそれら全てのデータが移行された新しいプラットフォームがあるとすれば、遠い未来の彼らは今のこの時代にアクセスすることが出来る。

しかしこの文明が終わればそんなことも難しくなるのだろう。

古代の壁画のように、タイムカプセルから出てきた誰かのノートの切れ端のように、それは解読不可能な、その時代その瞬間その場所を生きた者にしかわからない遊びとなる。

この、丹精込めてこねくりまわして必死に作り上げた無形のオブジェも、残したつもりで残らない、遊びの塵と化すのだろう。

結局僕らは、何かを誰かに与えるなんておこがましい、自分のためにさえ動くことの出来ない生き物なのだ。そしてそれすらも自分のためだと信じているのだ。

緩やかに未来へ進むタイムマシンに乗っている。

ゼロの壁

何をするにも、100という数値が目標としてわかりやすい。100回やったとか、100時間勉強したとか、100点取ったとか、100を超えることが一つ目のステージを終えることに等しい気がする。もちろんものによっては、10でもすごいとか1000じゃないとだめだとかあるかもしれないけど、僕の経験上は100、これが一つ目の壁であることが多い。

しかし、その100までいくにはけっこうな努力が必要だと感じるので、僕は常に10を目標にする。努力が嫌いだし、楽に楽しく、成功体験を積みたい。そしてその10を達成するために、まず1やってみることにする。1が出来ればあとは積み重ねで10に届く。さらにその連続で100に届く。そこまでは通常の努力でなんとかいける距離だなと思う。そして次のゼロを足して1000に届くのはなかなか難しそうだ。

1には行動の壁があり、10には継続の壁があり、100には努力の壁があり、1000には思考の壁があるのではないだろうかと思う。そして10000には才能の壁があり、その先には運の壁が、と見てもいない景色のことをあれこれ書いても説得力がない。

ただ、努力もしくは継続的な行動で100にいけることは知っている。だから100だなと思う。まず100を遠い目標に置いて、小さい目標の10を達成するために、目の前の1をこなしていこうと思った。まだ見ぬ1000の世界を見るために、何かのせいにするんじゃなくて、まずやってみろと自分に言い聞かせる。1000、これが何を意味するのかはわからないけど、その景色を見てみたいと思う。

すごく抽象的な数字の話になってしまったけど、これはけっこう当てはまるものが多いんじゃないかなと思っている。

二度目の雪が降った

暖房で乾燥がひどくて、窓を開けて寝た。起きると雪が降っていた。今年二度目だと思う。

雪が降るのは嬉しい。当たり前に雪が降る地域に住む人からすると、何を浮かれているんだと思われるのかもしれないけど、やっぱり嬉しい。特別な感じがする。昼間はしばらく止んでいたけど、夕方頃にまた降っていた。少し積もってるみたいだ。

今日は朝起きて、風呂に入って、少し仕事をして、お菓子を食べながら映画を三本観た、なんでもない日だった。ぼーっとしているくらいなら映画でも観ようって思って観始めたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。散歩もしたかったし、作りたいものもあったのに、本当にあっという間に一日が過ぎた。

こんなふうに明日も明後日も、あっという間に過ぎていってしまうんだろうと思うと、なんとも言えない遣る瀬無さに襲われる。何かやらなきゃっていう焦りが常にあるんだけど、まあ、今日は雪が降ったし、特別な日なんだろうということで、焦る必要はないと自分に言い聞かせる日にした。明日やろうと言っていたらいつまで経っても出来やしないという考えと、明日やろうでいいじゃないかという考えがぶつかり合って、今日の試合はやさしいほうが勝者となった。

いろんなことを明日の自分に任せたので、明日の自分はいろいろやってくれるんじゃないかと思っている。明日の自分に任せるのも、それなりの理由があるのだ。それなりの信頼があるのだ。僕は明日の自分はきっと本当にすげえやつなんだと信じている。だから明日の自分が何をやり遂げてもまったく驚かないし、明日の自分が何もしなくてもそれは意味のあることなんだと信じて疑わない。彼には才能があるのだ。

人任せにし過ぎるのはよくないので、明日の自分が存分に力を発揮してくれるように、今日の僕はたくさんお菓子を食べてたっぷり寝て、英気を養おうと思う。

頑張れ、明日の僕。

三食の日

外出の用事でもなければ、けっこうな頻度で一食しか食べない。腹が減らないからという日もあれば、面倒くさいからという日もある。

今日は久しぶりに自宅で三食の珍しい日だった。朝はカップうどん、昼は納豆ご飯とたけのこのなんちゃら煮、夜は焼き鳥とたこ焼き、どう考えても健康的ではない。

自分が食事する理由に、「暇だから」というのがある。学生時代にほぼ毎日一食だったのは、お金がないからというのもあったけど、主に熱中するものがあったからだった。食事している時間があるならその熱中していることに時間を使いたかった。

今はなんというか、熱中したいものはあるんだけど、心か体か、わからないけど熱中するだけの力が足りない。そんなふうに「何かしなきゃ」という思いと、「何かする気力がない」という思いが共存する時、食べるか、ということになったりする。普段からしっかり食べているわけではないため、そんな時に食べられるような腹の状態にはなっていたりする。こんな感じで、常に食事に対しては、食べたいわけでも食べたくないわけでもないという、自分でも説明が難しいような心持ちでいる。

ところで最近、朝から昼は少し元気で、昼は満腹になるくらいたっぷり食べることが多い。昼過ぎはずっと頭がぼーっとしていて、ただ座っているみたいな時間が多い。気力がなくて、どうしたもんかとけっこう悩んでいるんだけど、夜はまた少し元気になる。で、徒歩五分くらいのスーパーに行こうと思って、寒いからちょっとだけ走ってみたりする。

それで気づいたんだけど、なぜかあんまり疲れない。まったく運動していないのに、少し前の自分だったら走れなかった距離が走れるようになっている。走ると言っても、徒歩と変わらないペースではあるんだけどね。

何も感じない無気力状態になってしまっているのか、はたまたたっぷりランチが効いているのか、わからないけどこの不思議な時間を楽しんでいきたい。

明日死ぬなら

もう何年もずっと、浅くのっぺりとした体調不良がこびりついている。

左側の腹が時々ずきんと痛んだり、ふわっとして瞬きした次の瞬間には倒れていたり、食事の数十分後にどぼどぼと吐いてしまったり、昔はそういったことに縁がなかったので、急な変化に慣れずにいる。

こういうものだし、うまく付き合っていこうと頭では考えられても、心がついていかなくて、不安になる時もある。

歯磨きにちょっと力を入れ過ぎて、歯茎にぶつぶつと痛い傷が出来てしまって、数日治らないからそんな程度のことですらもちょっと不安で、一週間ほど消えないニキビと呼吸の苦しさも相まって、自分はとんでもなく大きな病に侵されてしまっているのではないかと考えてしまったりする。そんで、久しぶりの長時間睡眠ですべて回復して、なーんだ、ただの睡眠不足か、と安心する。

悩んでいた時間がもったいなと思っていた矢先、耳たぶの裏にニキビのようなものが出来た。無意識に触ったら痛くて、なんだろうこれって気づいて、次の日にはなくなっていた。

治っているなって気づいたところで耳の中が痒くなって、指で掻いたら激痛が走って、耳の中にニキビのようなものが出来ていることに気づく。耳たぶの裏から耳の中に移動したのかもしれないというような気がしてくる。

なんか嫌だなって思って首に手を置くとそこでまた痛みが走る。なんだこの痛みはって探っていたら首の中にそこそこの大きさのしこりがあることに気づいたのが今日のことだ。たぶん二、三センチはあると思う。不安になってネットで調べたら、たいしたことなさそうだったり、重そうだったりして何もわからなかった。

もう一週間ほど頭痛も止まないし、さすがに病院へ行こうと思った。

もしすでに重い病気にかかっていて、明日死ぬとしたらと考えてみたら、やることとやらないことが現実的にくっきり見えてきた。明日死ぬならやらないことに、迷ってる時間はもったいない。

情熱が足りないから痩せられない

毎日、風呂に入る前に体重を測るようにしている。

それは特にダイエットをしているわけでも、健康を意識しているわけでもないけど、増えれば増えたと思うし、減れば減ったと思う。でもやっぱり減ったほうが嬉しい。

今朝は増えても減ってもいない、ここのところの平均的な数字だった。

学生生活を終えるまでまったく変わらなかった体重は、ある一年で8キロほど増え、そこから2、3キロ減った状態を維持している。痩せることを考えるとき、脂肪を燃やすという表現をするけど、他に燃やせるものって何だろうと考えると、それは情熱かもしれない。

例えばそれは、憧れる何かを達成するために必要な姿かもしれない。

例えばそれは、その姿になること自体に憧れがあるのかもしれない。

きっと情熱があれば、努力を努力と思わずに、目標に向かって走り続けられる気がする。言葉にするのは簡単なことだけど、じゃあ情熱ってどうやったら手に入れられるのだ。情熱を燃やすには情熱が必要だ。情熱が足りないから、やってみたいなって思うことも、明日でもいいやって考えるし、やらなくてもいいやって考える。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、と失敗でもない失敗のことばかり考えたりする。

考えたって仕方がないってわかってはいるけど、そんなことばかり考えてしまうから、そんなことばかりが脂肪となって心はぶくぶく太っていく。

憧れる何かを達成するために痩せた姿が必要なのか、痩せた姿自体に憧れるのか。前者は痩せることが通過点であり、後者は目的地になっている。どっちが正しいとか間違っているとかじゃなくて、そういう憧れとの位置関係を知ることは大事だと思う。

だってなんとなく、情熱はどっちにより生まれそうか、わかる気がする。情熱ってどうやったら手に入れられるのかなんて、考えたって仕方がない。

今日は何を考えたっけ

今日は何を考えたっけ、と考える。

けれど一体全体どうしたものか、何を考えていたのか思い出せない。

ひたすらに、ああでもないこうでもないと悩んでみたり、ああしてしまえこうしてしまえと投げやりにしてみたり、とにかく頭はずっと動いていたはずなのに、てんで何も思い出せない。

そんな日々が続いていて、いやぁこれはよくないなぁと思っている。

しっかりと、今日を閉じ込めておきたい。いつでも取り出せるようにするには、頭の中の整理が必要で、頭の中の整理には言葉やら行動やらが必要だ。そういうわけで、『日日』はそういう場所にしたい。にちにち、と読む。名前は昔の知人の活動から拝借した。今どこで何をしているのかもわからないけど、僕の人生に大きな影響を与えてくれた人だ。

今日は何を考えたっけ、と考える。

そうだ、『日日』を作っていたんだった。24時間だけ公開される文章、これをわざわざ自分で作るんだから、僕は本当に何をやっているんだろうと思う。でも、他にやっている人を見たことがないし、面白いじゃんって思うから、これでいい。

面白いことをやっていきたいって常に思ってる。常に思ってるけど、面白いことって何だろう。難しいけど、他人がやっていないことをやっている人は面白いって思う。他人がやっていたことだとしても、自分で考えてたどり着いたなら、面白いことだと思う。

面白いことをやっていきたいって常に思っていて、常に考えている、そんな中でひねり出した面白いことの数々を、形にしないのは実にもったいない。もったいないから、これからたくさんお披露目していきたい。

ではさっそく、今日考えた中で一番面白いことをここに残すことにしよう。

……今日は何を考えたっけ。