サラダムーン

昨夜の満月はスノームーンと呼ばれるらしい。真っ白な月のことかと思えばそういうわけでもなく、2月の満月のことを言うらしい。何月の満月かによって、他にもストロベリームーンとかいろんな名前があるけど、名前があるだけで特に何も変わらない。でも、名前がついただけで、なんとなく特別な気がしたり、今日は空を見てみようかなと思えたりする。名前って素晴らしい。

体調のことをちょっとだけ気にしてサラダを買うようになった。ちょっとだけね。

コンビニのサラダの量がもう少し多いといいなと思う。これが食べたいというやつはだいたい量が少なく、大きめのサラダは、これじゃないという感じがする。たくさん食べたいときは自分で作るしかないのだろうか。サラダバーでのんびりしたい。

そういえばサラダっていわゆる野菜のことでいいんだよね?

でもお菓子なんかで「サラダ味」ってあるけどどういうこと?って思っていたので気になって調べてみた。サラダってどういう意味だろう。

サラダとは、生野菜を主として油と酢で調味してあえたもののことのようだ。ここまではイメージ通りだけど、じゃあお菓子のサラダ味ってなんだろう。

サラダ味とは、サラダ油をかけて塩味をつけたもののことのようだ。サラダ油……サラダ油のサラダってなんだろう。

サラダ油とは、生野菜のサラダ料理に合わせるための油として開発されたもののことのようだ。

サラダ味のサラダはサラダ油のサラダ、サラダ油のサラダはサラダ。うーん、なんか腑に落ちない。

七夕の話でもあったな。七夕に雨が降ると、天の川が氾濫して織姫と彦星は会えないらしい、という話と、七夕に降る雨は、二人が会えなくて流した涙であるという話、うーん、なんか腑に落ちない。

何一つ正解なんて存在しないのじゃないかという気さえしてくる、なんか腑に落ちない夜に見える月に名前をつけてみる。

毎日書くつもりはなかった『日日』を書き始めて、10日経った。700~800字くらいの感覚で、なんでもないことをつらつらと殴り書きしている。

日記的な意味合いもエッセイ的なニュアンスも意識しない、正直もうすでに何を書いたかもよく憶えていないくらいのものを書いている。ただ、その瞬間本音であることは間違いない。

始めた理由がいくつかある。

長らく離れていた文章を書くという行為に触れ、慣れたかったということ、何をやるでもない日々の中で、何かやっている自分を積み上げたかったということ、そんで、そういう自分の欲求のついでに、誰かに何か少しでも影響を与えられたなら嬉しいということ、これらを満たす可能性のある最小の行動として、この『日日』を選んでみた。

10日間やってみた感想としては、まず、文章を書くことにはだいぶ触れられている感覚がある。本当に久しくこうやって書くことがなかったので、殴り書きとはいえ難しい。思うように言葉が出てこない。けど、始めた日から比べてみれば少しはペースが速くなった気がする。

何かやっている自分を積み上げることはできたかというと、単純に10個の文章があるのを見て「何かやった気分」に浸ることはできている。何もやらなかった日々と比べれば、それは段違いの密度がある日々に感じる。錯覚でもいい。

人に影響を与えられたかというと、それはわからない。わからないけど、『日日』をシェアして、何かを書く人の存在が確認できた。自分の行動が誰かの生活の中にあることを確認できたことが、とても嬉しい。それらに目を通すことがまた自分の生活の一部となる。この、時間と空間を超えた、インターネットの海に漂う特有の体感を、また求め始めているのかもしれない。

空のある日常

朝から夜まで部屋で過ごし、飯を買おうと外に出たら月がよく見えた。

満月かなと思って調べてみると、満月は明後日だった。そういったことは日常的にあって、自分がよく空を見ていることに気づく。

昨年は、流れ星を見て、虹を見て、月食を見て、UFOのようなものを見た。流星群や月食は、その日がそうだとは知らず偶然に空を見ていた時に出会うことが出来た。前情報を知らずに出会うと、本当に奇跡を強く感じる。

そして今年に入ってすぐ、隕石を見た。隕石は、たまたま外に出た数分の間に現れて消えた。すぐにカメラを向けたので動画を残したけど、SNS上では目撃情報も少なく、本当に奇跡的だった。

UFOの件については、怪しまれたくないのでここでは割愛するが、ただ空を見ていただけで、こうやっていろいろなものに出会うことが出来た。

空を見ていなければ月は見えない。虹も流れ星も隕石も、出会うことはない。流れ星を見るために毎日空を見ていたら笑われるかもしれない。でも、空を見ていないと流れ星は見えない。これはいろんなことに言えるなと思う。

夢を見る人はいつだって笑われる。笑われてなお夢を見る。人の夢を笑わないことが正しく優しいようになってきている気もするが、この頃は、笑われる夢を持ちたいと思ったりもする。

何か作品で表現する時なんかには、わかってもらいたい、伝えたいという気持ちと、伝わるものではない、理解されるようじゃまだまだだという気持ちが共存する。同じように、自分の夢を笑われることは、悲しくもあれば、嬉しくもある。笑われるほど素晴らしい夢なのだ。出来るとわかっていることが出来るより、出来ないと思われているものが出来ることにより楽しさや燃えるものがあるのだ。

見ようと思わないと見られないものがたくさんある。笑われるような夢を見られた自分を褒めてやろう。空の向こうには何があるだろう。

問題ない問題

今日やることと今日やりたいことを書きだして、9個のうち5個を終えることができた。

やろうと思い続けてやれていなかったことがいくつかあったけど、勢いでまとめて終わらせた。素晴らしい。そのうち3つは電話することで、全部お金に関わることだ。なんやかんやで、一般的なアルバイトの日給分くらいが手元にかえってくる。ありがたい。ありがたいけど、そのほとんどが病院代に消えた。

しばらくめまいや耳の痛みが気になっていて、耳鼻科に行ってきた。考えられる原因としては、栄養不足や睡眠不足、耳内部の炎症、可能性は低いが脳の問題があるらしい。

診てもらった結果としては、炎症は少なく、脳の問題もないらしい。つまり栄養不足か睡眠不足ということになるわけだけど、睡眠は毎日10時間くらいはとっているし、じゃあ栄養不足かっていうと、うん、その可能性は大いにある。

栄養不足、というほど偏った食生活を送っているとは思わないけど、思い返してみれば毎日の食事の量が少ないなあとか、パスタ多めだなあとか、お菓子食べ過ぎだなあとか、甘い飲み物ばかりだなあとか、けっこう気を付けたほうがいいかもしれない。

でも、煙草も吸わないし、お酒も飲まないし、いわゆる不健康の代名詞みたいなものからは距離のある場所にいるから、逆に僕が危ない状況となると、世間の皆様はもう死期間近じゃなかろうかと思ったりする。

他にあるとすれば、運動不足とか、精神的な問題とか、そういうものの影響もありそうだ。

精神的な問題の解決は簡単なものじゃないから、出来る範囲で、運動不足について少しずつ改善していこう。運動しよう。散歩するとか自転車に乗るとか、けっこう日常的にやっていたことも、最近はまったくやっていない。散歩は好きで、ちょっと前まで意味なく深夜に街を歩き回っていたことがある。あの習慣を取り戻そう。

失速

もう二月も中旬、時間が経つのは本当に早い。今年の意気込みはなかなかで、一月は自分の中でもそれなりに良い出だしだったと思う。

けど、今月はだいぶ失速気味だ。といってもまだ二週間あるので、ここから追い上げよう。何をだろう?

友人とチームで制作の仕事をしているんだけど、昨日から右耳が聞こえにくくて、頭の中がぐわんぐわんとしていて、途中で切り上げてきた。話している時とか、ぐっと集中出来た瞬間は平気なのに、ふとした瞬間にくらっとする。昼頃に帰ってすぐ寝て、起きてもずっと違和感がすごくて、夕方過ぎてからやっと良くなってきた。

体調不良な話ばかりになっていて、自分でも面白くない。近々病院には行くけど、なんでもないといいな。精神的な問題で出ている症状であるほうがいくらかマシだ。

さて、今月に作りたいものが二つある。正確には作り直したいものだ。始めたいこともいくつかある。発表できたらいいなと思うものもいくつかある。時間が経つのは本当に早いので、思いつくものからどんどんと形にしていきたい。

始めることは面積を拡げること、続けることは体積を積むこと、なるべく高いところへ上るために、関係なさそうに見えることを始めてみることが重要だと思っている。

関係ないと思っていたことが、実は深いところで繋がっていて、あれとこれは一緒だったんだと気づくことがある。

算数と音楽が似ていたり、ホラーとお笑いが似ていたりすることに気づくと、じゃあ、かくれんぼと昆虫図鑑が一緒だったり、RPGと電子レンジが一緒だったりするかもしれなくなってくる。それはつまり、一見無関係に見えるものの共通点を見つけた時に得られる、「少し深く知ったような気分」を大事にしたいということである。

タイムトラベラー

SF映画を観過ぎて、UFOや宇宙人、過去やら未来が生活の中に飛び交っている。

宇宙人が地球にやってきて何らかの問題を起こすとか、その逆で地球からどこかの星へ行って問題に出逢いに行くとか、だいたいそんなものだけど、ホラーと一緒で、そういうお決まりの展開が面白かったりする。

しかしたまには、何を聞いても教えてくれないとんでもない無能が未来から来るとか、ずっと遠い昔から飛んできた若者が現代に染まっていくとか、そういうドラマも見てみたい。

ところで、理論的には未来に行くことは出来ても過去に戻ることは出来ないというような話があるけど、実は過去へ戻る方法は意外と簡単なのだ。過去へ戻るためには準備が必要だけど、逆に言えば準備をすれば戻れるのである。

日記帳だったり、写真だったり、CDやDVDだったり、とにかく記録を残すのだ。今この瞬間にアンカーポイントを打つことによって、未来の誰かがここにアクセスすることが可能になる。

未来にインターネットが続いているとすれば、もしくはそれら全てのデータが移行された新しいプラットフォームがあるとすれば、遠い未来の彼らは今のこの時代にアクセスすることが出来る。

しかしこの文明が終わればそんなことも難しくなるのだろう。

古代の壁画のように、タイムカプセルから出てきた誰かのノートの切れ端のように、それは解読不可能な、その時代その瞬間その場所を生きた者にしかわからない遊びとなる。

この、丹精込めてこねくりまわして必死に作り上げた無形のオブジェも、残したつもりで残らない、遊びの塵と化すのだろう。

結局僕らは、何かを誰かに与えるなんておこがましい、自分のためにさえ動くことの出来ない生き物なのだ。そしてそれすらも自分のためだと信じているのだ。

緩やかに未来へ進むタイムマシンに乗っている。

ゼロの壁

何をするにも、100という数値が目標としてわかりやすい。100回やったとか、100時間勉強したとか、100点取ったとか、100を超えることが一つ目のステージを終えることに等しい気がする。もちろんものによっては、10でもすごいとか1000じゃないとだめだとかあるかもしれないけど、僕の経験上は100、これが一つ目の壁であることが多い。

しかし、その100までいくにはけっこうな努力が必要だと感じるので、僕は常に10を目標にする。努力が嫌いだし、楽に楽しく、成功体験を積みたい。そしてその10を達成するために、まず1やってみることにする。1が出来ればあとは積み重ねで10に届く。さらにその連続で100に届く。そこまでは通常の努力でなんとかいける距離だなと思う。そして次のゼロを足して1000に届くのはなかなか難しそうだ。

1には行動の壁があり、10には継続の壁があり、100には努力の壁があり、1000には思考の壁があるのではないだろうかと思う。そして10000には才能の壁があり、その先には運の壁が、と見てもいない景色のことをあれこれ書いても説得力がない。

ただ、努力もしくは継続的な行動で100にいけることは知っている。だから100だなと思う。まず100を遠い目標に置いて、小さい目標の10を達成するために、目の前の1をこなしていこうと思った。まだ見ぬ1000の世界を見るために、何かのせいにするんじゃなくて、まずやってみろと自分に言い聞かせる。1000、これが何を意味するのかはわからないけど、その景色を見てみたいと思う。

すごく抽象的な数字の話になってしまったけど、これはけっこう当てはまるものが多いんじゃないかなと思っている。

二度目の雪が降った

暖房で乾燥がひどくて、窓を開けて寝た。起きると雪が降っていた。今年二度目だと思う。

雪が降るのは嬉しい。当たり前に雪が降る地域に住む人からすると、何を浮かれているんだと思われるのかもしれないけど、やっぱり嬉しい。特別な感じがする。昼間はしばらく止んでいたけど、夕方頃にまた降っていた。少し積もってるみたいだ。

今日は朝起きて、風呂に入って、少し仕事をして、お菓子を食べながら映画を三本観た、なんでもない日だった。ぼーっとしているくらいなら映画でも観ようって思って観始めたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。散歩もしたかったし、作りたいものもあったのに、本当にあっという間に一日が過ぎた。

こんなふうに明日も明後日も、あっという間に過ぎていってしまうんだろうと思うと、なんとも言えない遣る瀬無さに襲われる。何かやらなきゃっていう焦りが常にあるんだけど、まあ、今日は雪が降ったし、特別な日なんだろうということで、焦る必要はないと自分に言い聞かせる日にした。明日やろうと言っていたらいつまで経っても出来やしないという考えと、明日やろうでいいじゃないかという考えがぶつかり合って、今日の試合はやさしいほうが勝者となった。

いろんなことを明日の自分に任せたので、明日の自分はいろいろやってくれるんじゃないかと思っている。明日の自分に任せるのも、それなりの理由があるのだ。それなりの信頼があるのだ。僕は明日の自分はきっと本当にすげえやつなんだと信じている。だから明日の自分が何をやり遂げてもまったく驚かないし、明日の自分が何もしなくてもそれは意味のあることなんだと信じて疑わない。彼には才能があるのだ。

人任せにし過ぎるのはよくないので、明日の自分が存分に力を発揮してくれるように、今日の僕はたくさんお菓子を食べてたっぷり寝て、英気を養おうと思う。

頑張れ、明日の僕。

三食の日

外出の用事でもなければ、けっこうな頻度で一食しか食べない。腹が減らないからという日もあれば、面倒くさいからという日もある。

今日は久しぶりに自宅で三食の珍しい日だった。朝はカップうどん、昼は納豆ご飯とたけのこのなんちゃら煮、夜は焼き鳥とたこ焼き、どう考えても健康的ではない。

自分が食事する理由に、「暇だから」というのがある。学生時代にほぼ毎日一食だったのは、お金がないからというのもあったけど、主に熱中するものがあったからだった。食事している時間があるならその熱中していることに時間を使いたかった。

今はなんというか、熱中したいものはあるんだけど、心か体か、わからないけど熱中するだけの力が足りない。そんなふうに「何かしなきゃ」という思いと、「何かする気力がない」という思いが共存する時、食べるか、ということになったりする。普段からしっかり食べているわけではないため、そんな時に食べられるような腹の状態にはなっていたりする。こんな感じで、常に食事に対しては、食べたいわけでも食べたくないわけでもないという、自分でも説明が難しいような心持ちでいる。

ところで最近、朝から昼は少し元気で、昼は満腹になるくらいたっぷり食べることが多い。昼過ぎはずっと頭がぼーっとしていて、ただ座っているみたいな時間が多い。気力がなくて、どうしたもんかとけっこう悩んでいるんだけど、夜はまた少し元気になる。で、徒歩五分くらいのスーパーに行こうと思って、寒いからちょっとだけ走ってみたりする。

それで気づいたんだけど、なぜかあんまり疲れない。まったく運動していないのに、少し前の自分だったら走れなかった距離が走れるようになっている。走ると言っても、徒歩と変わらないペースではあるんだけどね。

何も感じない無気力状態になってしまっているのか、はたまたたっぷりランチが効いているのか、わからないけどこの不思議な時間を楽しんでいきたい。

明日死ぬなら

もう何年もずっと、浅くのっぺりとした体調不良がこびりついている。

左側の腹が時々ずきんと痛んだり、ふわっとして瞬きした次の瞬間には倒れていたり、食事の数十分後にどぼどぼと吐いてしまったり、昔はそういったことに縁がなかったので、急な変化に慣れずにいる。

こういうものだし、うまく付き合っていこうと頭では考えられても、心がついていかなくて、不安になる時もある。

歯磨きにちょっと力を入れ過ぎて、歯茎にぶつぶつと痛い傷が出来てしまって、数日治らないからそんな程度のことですらもちょっと不安で、一週間ほど消えないニキビと呼吸の苦しさも相まって、自分はとんでもなく大きな病に侵されてしまっているのではないかと考えてしまったりする。そんで、久しぶりの長時間睡眠ですべて回復して、なーんだ、ただの睡眠不足か、と安心する。

悩んでいた時間がもったいなと思っていた矢先、耳たぶの裏にニキビのようなものが出来た。無意識に触ったら痛くて、なんだろうこれって気づいて、次の日にはなくなっていた。

治っているなって気づいたところで耳の中が痒くなって、指で掻いたら激痛が走って、耳の中にニキビのようなものが出来ていることに気づく。耳たぶの裏から耳の中に移動したのかもしれないというような気がしてくる。

なんか嫌だなって思って首に手を置くとそこでまた痛みが走る。なんだこの痛みはって探っていたら首の中にそこそこの大きさのしこりがあることに気づいたのが今日のことだ。たぶん二、三センチはあると思う。不安になってネットで調べたら、たいしたことなさそうだったり、重そうだったりして何もわからなかった。

もう一週間ほど頭痛も止まないし、さすがに病院へ行こうと思った。

もしすでに重い病気にかかっていて、明日死ぬとしたらと考えてみたら、やることとやらないことが現実的にくっきり見えてきた。明日死ぬならやらないことに、迷ってる時間はもったいない。

情熱が足りないから痩せられない

毎日、風呂に入る前に体重を測るようにしている。

それは特にダイエットをしているわけでも、健康を意識しているわけでもないけど、増えれば増えたと思うし、減れば減ったと思う。でもやっぱり減ったほうが嬉しい。

今朝は増えても減ってもいない、ここのところの平均的な数字だった。

学生生活を終えるまでまったく変わらなかった体重は、ある一年で8キロほど増え、そこから2、3キロ減った状態を維持している。痩せることを考えるとき、脂肪を燃やすという表現をするけど、他に燃やせるものって何だろうと考えると、それは情熱かもしれない。

例えばそれは、憧れる何かを達成するために必要な姿かもしれない。

例えばそれは、その姿になること自体に憧れがあるのかもしれない。

きっと情熱があれば、努力を努力と思わずに、目標に向かって走り続けられる気がする。言葉にするのは簡単なことだけど、じゃあ情熱ってどうやったら手に入れられるのだ。情熱を燃やすには情熱が必要だ。情熱が足りないから、やってみたいなって思うことも、明日でもいいやって考えるし、やらなくてもいいやって考える。ああなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、と失敗でもない失敗のことばかり考えたりする。

考えたって仕方がないってわかってはいるけど、そんなことばかり考えてしまうから、そんなことばかりが脂肪となって心はぶくぶく太っていく。

憧れる何かを達成するために痩せた姿が必要なのか、痩せた姿自体に憧れるのか。前者は痩せることが通過点であり、後者は目的地になっている。どっちが正しいとか間違っているとかじゃなくて、そういう憧れとの位置関係を知ることは大事だと思う。

だってなんとなく、情熱はどっちにより生まれそうか、わかる気がする。情熱ってどうやったら手に入れられるのかなんて、考えたって仕方がない。

今日は何を考えたっけ

今日は何を考えたっけ、と考える。

けれど一体全体どうしたものか、何を考えていたのか思い出せない。

ひたすらに、ああでもないこうでもないと悩んでみたり、ああしてしまえこうしてしまえと投げやりにしてみたり、とにかく頭はずっと動いていたはずなのに、てんで何も思い出せない。

そんな日々が続いていて、いやぁこれはよくないなぁと思っている。

しっかりと、今日を閉じ込めておきたい。いつでも取り出せるようにするには、頭の中の整理が必要で、頭の中の整理には言葉やら行動やらが必要だ。そういうわけで、『日日』はそういう場所にしたい。にちにち、と読む。名前は昔の知人の活動から拝借した。今どこで何をしているのかもわからないけど、僕の人生に大きな影響を与えてくれた人だ。

今日は何を考えたっけ、と考える。

そうだ、『日日』を作っていたんだった。24時間だけ公開される文章、これをわざわざ自分で作るんだから、僕は本当に何をやっているんだろうと思う。でも、他にやっている人を見たことがないし、面白いじゃんって思うから、これでいい。

面白いことをやっていきたいって常に思ってる。常に思ってるけど、面白いことって何だろう。難しいけど、他人がやっていないことをやっている人は面白いって思う。他人がやっていたことだとしても、自分で考えてたどり着いたなら、面白いことだと思う。

面白いことをやっていきたいって常に思っていて、常に考えている、そんな中でひねり出した面白いことの数々を、形にしないのは実にもったいない。もったいないから、これからたくさんお披露目していきたい。

ではさっそく、今日考えた中で一番面白いことをここに残すことにしよう。

……今日は何を考えたっけ。